喜捨の精神

こんにちは。雪ん子です。

前回は、友人が東京へ行った際のことを書きました。

今回は前回、書ききれなかった事を書きたいと思います。

友人が東京の、とあるモスクへ訪れた事はお伝えしました。

その際、友人と交わした会話の中のエピソード中で、これぞイスラム教というエピソードを、聞きました。

モスク訪問の時間は限られていたそうですが、
事務局の方とのお話中、ひっきりなしにモスクへの電話がかかってきていたそうです。

その内容は、九州地方の大型地震に対する喜捨でした。

世界のイスラム圏、パキスタン、マレーシア、インドネシア、その他多数の国のより喜捨したい!との電話が止む事なくかかっていたとの事です。

喜捨とは、困窮者への施しを意味します。

イスラム教の五行の内の一つです。

喜捨は大きく、ザカートと呼ばれるものと、サダカと呼ばれるものの2つに分かれているようです。

ザカートとは、義務的な喜捨で、財産税的なものです。

イスラームの国内の社会福祉などの国家運営システムに使われます。

そして、サダカは自由喜捨で、各々がアッラーより喜捨をさせて貰ったものです。

今回、東京でのケースは自由喜捨です。

この喜捨なんですが、先日読んだ本に、日本人には中々理解しがたいエピソードがあったのを思いだしました。

著者が、とあるアラブ圏へ留学した際のエピソードです。

留学当初、ある目的地へバスを乗って向かいました。
そして目的地へ到着し、降りようと思ってお金を出すと、後ろから1人の男性が近づいて来ました。

その男性は、『バス代が無いから、喜捨して欲しい』と著者へ言ったといいます。

著者は仕方が無いので、お金を渡しました。

ですが、その男性は憮然とした態度で当然の如く、そのお金を受け取ったのです。

著者は日本人なので当然、そこは、『ありがとうございました!またお返しします。』とか言うと思っていたので、怒りを覚えました。

ですが、後々、この行為はアラブ諸国イスラム教徒にとっては当たり前に行われる行為だと分かったというものです。

現地にて、よくそう言った行為を見る事があったとの事でしたが、皆、喜捨をした人々は揃いも揃い、お金を渡した後、『アッラーが私に彼への喜捨をさせてくれた。アッラーへ感謝しよう。』と述べるとの事です。

今回の地震でも、僕たちの知らないところで、この喜捨の精神が活きていて、世界中のムスリムが手を差し伸べてくれている。  

彼らにとっては当たり前の事なんだろうけど、今回の出来事を聞いて、僕はますますイスラム教が好きになりました。

最近、涙腺が緩いのか、書きながら、熱いものが込み上げてきます。

一部の狂信的テロリストの行為で、イスラム教徒は怖いと言うイメージが日本では多分にあります。

国をあげての喜捨精神、皆さんのイスラム教に対するイメージが少し、良い方へ変化していたら幸いです。